2011.03.28 Monday
あの日、そして明日は。
あの日、東京は震度5強。我が家も激しく揺さぶられました。本棚から束になって本が落ちました。家の壁にひびが入り、玄関のタイルが割れ落ちていました。
しかし、直後にテレビの画面は、津波に飲み込まれる住宅、ビル、車を映し出しました。言葉を失うと同時に、そこで数千数万の人の命が失われつつある事を直感し、目の前が暗くなって行きました。
津波に飲みこまれた人々が、いったい何をしたというのでしょう。東北で静かに生きてきた人々がこのような強大な自然の暴力をふるわれる…、テレビの前にいる私は、それに対して何も出来ないまま、ただ立ちすくむことしかできませんでした。しかし、私たちは、生き残った人々、家族を失い、住まいを流され、暮らしのすべを奪われた人々と、共にいなければならないはずです。
さらに、私たちに重くのしかかるのは福島第一原発から吐き出され続ける放射能です。原爆開発から70年近く。頭上に初の核兵器を投下された私たち日本人は、豊かさを手に入れるために、核反応をコントロールし、豊富で安価な電力を手に入れたはずでした。それは、パンドラの箱だったのでしょうか。電力会社や原子力行政を推し進めた国への怒りを募らせています。でも、その電力で便利なくらしを享受してきたのも私たちなのです。いまも、臨界に向かう核燃料の暴走を抑えようと戦っている人々がいます。その人々への思いも大切でしょう。なんとか、原子炉の崩壊を抑え、復興へ専念できる環境を整えて欲しいと願っています。
明けない夜はないと言います。 この長い夜を抜けて、希望の光の見える明日を迎えられるよう、祈るばかりです。
しかし、直後にテレビの画面は、津波に飲み込まれる住宅、ビル、車を映し出しました。言葉を失うと同時に、そこで数千数万の人の命が失われつつある事を直感し、目の前が暗くなって行きました。
津波に飲みこまれた人々が、いったい何をしたというのでしょう。東北で静かに生きてきた人々がこのような強大な自然の暴力をふるわれる…、テレビの前にいる私は、それに対して何も出来ないまま、ただ立ちすくむことしかできませんでした。しかし、私たちは、生き残った人々、家族を失い、住まいを流され、暮らしのすべを奪われた人々と、共にいなければならないはずです。
さらに、私たちに重くのしかかるのは福島第一原発から吐き出され続ける放射能です。原爆開発から70年近く。頭上に初の核兵器を投下された私たち日本人は、豊かさを手に入れるために、核反応をコントロールし、豊富で安価な電力を手に入れたはずでした。それは、パンドラの箱だったのでしょうか。電力会社や原子力行政を推し進めた国への怒りを募らせています。でも、その電力で便利なくらしを享受してきたのも私たちなのです。いまも、臨界に向かう核燃料の暴走を抑えようと戦っている人々がいます。その人々への思いも大切でしょう。なんとか、原子炉の崩壊を抑え、復興へ専念できる環境を整えて欲しいと願っています。
明けない夜はないと言います。 この長い夜を抜けて、希望の光の見える明日を迎えられるよう、祈るばかりです。
⇒ ムリカのママ (09/25)
⇒ リーの (09/25)
⇒ ムリカのママ (09/10)
⇒ ひでお (09/10)
⇒ ムリカのママ (07/30)
⇒ miki (07/30)
⇒ ムリカのママ (07/03)
⇒ ひでお (07/03)
⇒ ムリカのママ (07/03)
⇒ miki (07/02)